歴史が語りかける修復現場 ~長岡天満宮御本殿、50年ぶりの大規模修理に迫る~
令和7年6月16日、長岡京市商工会文化交通業部会の声掛けで部会員様でもある長岡天満宮にて、50年ぶりの大規模改修の様子を見学してきました。
梅雨の合間に突然訪れた猛暑の中、参加者の皆さんは天満宮の神職の方、長岡京市役所の文化財担当の方の説明に暑さを忘れるほどに(忘れられないくらいの暑さでしたが・・・)熱心に聞き入っていました。
今日は私達の貴重な体験をレポートという形で皆さんにも共有したいと思います。




文化財修復の現場に足を踏み入れて
長岡天満宮の境内で、今まさに歴史的な瞬間が展開されています。京都府指定文化財である御本殿が、約50年ぶりとなる大規模な屋根保存修理工事を受けているのです。普段は立ち入ることのできない「御禁足地」で行われているこの作業を間近で見学できる機会は、文化財保存の現実を肌で感じる貴重な体験となります。
この修理は、令和9年に迎える菅原道真公の御神忌千百二十五年半萬燈祭に向けて実施されており、令和6年から2年計画で進められています。単なる建物の修繕ではなく、日本の伝統技術と文化的価値を未来に継承する重要な文化活動なのです。
時を超えて語り継がれる建物の物語
平安神宮から長岡へ:奇跡的な出会い
現在の長岡天満宮御本殿の歴史を理解するには、まず明治時代まで遡る必要があります。この建物は、もともと明治28年(1895年)に平安遷都千百年を記念して創建された平安神宮の御本殿でした。桓武天皇を御祭神とする平安神宮で約45年間その役割を果たしていた建物が、なぜ長岡天満宮に移築されることになったのでしょうか。
昭和13年頃、平安神宮では孝明天皇を合祀するため新たな御本殿の建築が検討されていました。一方、長岡天満宮でも当時の御本殿の老朽化が深刻な問題となっていました。特に、JRや阪急の駅開設、車道の整備といった交通網の発達により参拝客が大幅に増加し、江戸時代に建てられた本殿では手狭になっていたのです。
この二つの課題が奇跡的に合致したのです。平安神宮の「新しい本殿を建てるため、古い本殿をどうするか」という問題と、長岡天満宮の「老朽化した本殿を新築したい」というニーズが、桓武天皇の都であった長岡と平安京という歴史的な「御縁」によって結ばれました。昭和15年から16年にかけて、平安神宮から御本殿、祝詞、拝殿の3点が無償で譲渡され、現在の地に移築されたのです。
建築の名匠たちが手がけた傑作
この御本殿の価値は、その移築の経緯だけでなく、設計に関わった人物にも表れています。木子清敬や伊東忠太といった当時の著名な建築家が設計を手掛けており、質の高い材料と技法を用いて建築された「近代神社建築の代表例」として高く評価されています。
移築の際には「平安神宮で建っていた時の本殿の様子を変えてはならない」という条件があったため、創建当初の姿がそのまま保たれています。この条件により、現在私たちは平安神宮創建当時の建築技術と美意識を直接目にすることができるのです。平成23年には、この歴史的・建築的価値が認められ、京都府指定文化財に指定されました。
古いものを大切に使い続ける知恵
長岡天満宮の歴史を学ぶ上で特に興味深いのは、現在の御本殿が移築される以前の建物がどうなったかという点です。江戸時代から使われていた旧御本殿や拝殿は、廃棄されることなく、それぞれゆかりのある神社に移築されました。
旧御本殿は大歳神社の御本殿として今も建っており、京都府暫定登録文化財に指定されています。江戸時代の拝殿は井内角宮神社に移築され、管理のしやすさを考慮して檜皮葺きから瓦屋根に変更されました。また、神職が祝詞をあげる場所であった旧祝詞舎は、現在も境内の手水舎の一部として形を残しています。
このような建物の再利用は、単なる節約ではありません。それぞれの建物が持つ歴史的価値と文化的意味を次の世代に伝える、日本古来の智恵なのです。古いものでも価値あるものは大切に使い続けるという考え方が、長岡天満宮の歴史を通じて一貫して見られます。
文化財修理の世界:一般的な修理との根本的な違い
「保存修理」という特殊な技術
今回の修理で最も興味深いのは、「文化財建造物の保存修理」という特殊な方法が用いられていることです。一般的な建物の修理と文化財の保存修理は、根本的に異なる考え方に基づいています。
通常の建物修理では、古くなった部材は全て取り替えるのが基本です。柱が傷んでいれば1本まるごと交換し、屋根が古ければ全面的に新しくします。しかし、文化財の保存修理では、たとえ一部が腐食していても、使える部分はそのまま残し、傷んだ部分だけを取り替えて継ぎ足すのです。
この方法は、建物の持つ歴史的価値や当時の姿を可能な限りそのまま伝えるためです。修理の際は、建物が建てられた当時の工法や材料を用いることが原則とされています。江戸時代に建てられた建物なら江戸時代の工法で、明治時代の建物なら明治時代の技術を使って修理するのです。
檜皮葺きの世界:持続可能な伝統技術
御本殿の屋根は「檜皮葺き」という、檜の木の皮を剥ぎ重ねて屋根を葺く伝統工法で造られています。長岡京市内では、長岡天満宮御本殿のほか、光明寺の勅使門などでこの檜皮葺きの建物を見ることができますが、これほど大規模な檜皮葺き屋根の修理現場を間近で見る機会は極めて稀です。
檜皮葺きの特徴は、その持続可能性にあります。檜皮は、木を切り倒すのではなく、生きている檜の木から皮を剥ぎ取ります。檜の木は8年から10年で皮が再生するため、同じ木から何度も材料を得ることができるのです。剥ぐ作業は職人による手作業で行われ、現代でも古来と変わらない方法で続けられています。
継ぎ合わせの技術も見どころの一つです。腐った部分を除去した後、新しい材を釘を使わずにぴったりと合わせて修理します。この技術は、現代の建築技術では再現が困難な、熟練職人の技の結晶なのです。
江戸時代から現在まで:境内の変化と発展
長岡天満宮の境内は、江戸時代から現在に至るまで、時代の変化に合わせて発展を続けてきました。江戸時代の1700年代には、すでに観光ガイドブックに掲載されるほど有名な場所で、京都や大阪方面からも多くの参拝客が訪れていました。
現在キリシマツツジで有名な中堤は、江戸時代には松並木でした。菅原道真公の御神忌に合わせて50年に一度斎行される萬燈祭などの大きな祭事に向けて、少しずつ境内を整備していく中で、美しいツツジ庭園へと変化したのです。
昭和13年頃のJRや阪急の駅開設、車道の整備は、長岡天満宮にとって大きな転換点でした。交通アクセスの向上により参拝客が大幅に増加し、神社の格も上がりました。この変化が、現在の御本殿移築という大事業につながったのです。
修復工事の現場から学ぶこと
御祭神の「お引越し」
修理期間中、御本殿に祀られている菅原道真公の御霊は別の場所にお遷しされており、現在の御本殿は神様がいらっしゃらない「空っぽ」の状態で修理が行われています。これは、修理作業の安全性と、神聖な空間への配慮を両立させるための措置です。
現場見学での発見
修理現場の見学では、普段では絶対に見ることのできない檜皮葺きの内部構造や、職人の技術を間近で観察することができます。特に、腐食した部分だけを除去し、新しい材を継ぎ足す技術や、釘を使わずに部材をぴったりと合わせる技法は、現代の建築技術とは全く異なる発想に基づいており、日本の伝統技術の奥深さを実感できます。
見学の際は、檜皮や建物に触れないこと、ヘルメットの着用、足場への注意など、文化財保護のための厳重な管理がなされています。これは、せっかく修理した箇所を再び傷つけることがないよう、細心の注意を払うためです。
文化財保存が持つ現代的意義
技術継承の重要性
今回の修復工事は、単に建物を直すだけでなく、檜皮葺きなどの伝統技術を次世代に継承する貴重な機会でもあります。このような大規模な修理は約50年に一度のため、職人の技術継承にとって極めて重要な実践の場となっています。
持続可能性への示唆
檜皮葺きのように、木を切り倒すことなく材料を得られる技術や、建物全体を廃棄せずに必要な部分だけを修理する考え方は、現代の持続可能性の概念と通じるものがあります。資源を大切に使い、長期的な視点で物事を考える日本の伝統的な智恵が、現代社会にも重要な示唆を与えています。
地域文化の核としての役割
長岡天満宮は、江戸時代から現代まで一貫して地域の文化的中心であり続けています。今回の修復工事も、令和9年の御神忌千百二十五年半萬燈祭に向けた準備の一環として位置づけられており、地域の文化的アイデンティティを維持・発展させる重要な役割を果たしています。
おわりに:歴史と現代をつなぐ架け橋
長岡天満宮御本殿の修復工事は、単なる建物の維持管理を超えた、文化的・歴史的な意義を持つプロジェクトです。平安神宮からの移築という特殊な歴史、著名な建築家による設計、檜皮葺きという伝統技術、そして文化財保存という現代的課題が一つに集約された、まさに「生きた文化財」なのです。
この修理現場を見学することで、私たちは日本の伝統技術の素晴らしさ、文化財保存の重要性、そして歴史を未来に伝える責任について深く学ぶことができます。50年に一度という貴重な機会を通じて、文化財がどのように守られ、次世代に引き継がれていくのかを実感し、私たち一人一人が文化保存の担い手であることを認識する契機となるでしょう。
歴史ある文化財は、過去と現在、そして未来をつなぐ架け橋です。長岡天満宮御本殿の修復工事は、その架け橋がいかに大切に維持され、次世代に受け継がれていくかを示す、貴重な実例なのです。